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日蓮聖人銅像

福岡県福岡市東区吉塚

撮影日:2008年08月24日

東公園の傍にあった日蓮聖人銅像護持教会へ立ち寄ってみました。



銅造日蓮聖人立像(どうぞうにちれんしょうにんりゅうぞう)

 明治21(1888)年、湯地丈雄(1847〜1913)が起こした元寇記念碑建設運動に端を発し、日蓮宗僧侶 佐野前勵(日菅、浮羽町本仏寺住職1859〜1912)がそれに共鳴して、建立が進められたものです。明治37年(1904)に完成した像高は、10.6mの大きさです。
 東京美術学校(現東京芸術大学)の岡倉天心が制作を引き受け、原型(本型)の制作を木彫科初代教授竹内久一が、頭部と両手首を鋳造を上野公園の西郷隆盛像なその制作で知られる鋳金科教授岡崎雪声が手がけました。
 本体部は佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもち、明治維新後はヨーロッパの近代工業技術を移入した佐賀市の谷口鉄工所が鋳造し、その結果、伝統的技術と近代的工業技術の織合がみられる作となっています。
 また台座のリレーフは洋両家の矢田一嘯(1858〜1913)の原両によるものです。
烈風に法表を翻し、理想を護持して堂々と厳しく立つ本像は伝統的(仏師)が近代的(彫刻家)として再生する過程の作品として、また制作技術の推移を示す作品としても近代彫刻史上、この時代を代表する貴重な作品です。

日蓮聖人の三大誓願碑
 日本の鎌倉時代は、内外に危機がせまり不安に充ちた末法暗黒の世でした。その病める人々を救おうと、多くの宗教が生まれましたが、最後に日蓮聖人が出られ真の仏意を体し法華経の真理にもとづいて人類社会の根本解決のため「立正安国の宗教」を開かれたのです。
 聖人は、あらゆる迫害にたえ、生命がけで真理の教えを弘められました。この「三大誓願」は、すべての人々を救わねばやまないという聖人のかたい誓いの言葉で「開目鈔」に書き留められました。
 ああ、なんと力強くあたたかくて大きい、ひろい心でしょうか。
碑の文字は、日本近代の初めに、純正日蓮主義を唱えて国柱会を創始した仏教の改革者田中智学先生の筆である。

元師伯爵 東郷平八郎之像

 
胸像の由来
 東郷平八郎元師は、法華教の篤信者であった。
明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ戦勝御礼に参拝された。
 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。
 この胸像は、昭和10年に元師の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野 昇 外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には
「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付くしてあった。
 これは大正3年4月、元師が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南州会有志が改修し奉納するものである。この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。



 
 
 
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