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TOPへ 太宰府政庁正殿(都府楼)跡 秋思祭

太宰府政庁正殿(都府楼)跡

福岡県太宰府市観世音寺4-6-1

撮影日:2004年03月19日
:2008年11月20日


太宰府政庁正殿跡

 古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智二年(663年)唐・新羅の連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻に備え、博多の那ノ津(当時は官家と呼ばれ、現在の福岡市大橋附近と想定されている所)にあった大宰の府(九州一円の統治の拠点であると共に、対外交渉を掌る役所)を移したところである。

 大宰府をこの地に置くと同時に、百済からの亡命者の指導により北面の四王寺山に大野城、南面の基山に基肄城(きいじょう)を、平野部には水城を築いて大宰府を防衛した。

 その後、大宰府は一時廃止されて筑紫鎮西が設置されたが、すぐ復活し「此の府、人物殷繁にして天下の一都会なり」と言われるほどの繁栄をみた。
 十世紀中頃、藤原純友の乱の戦火で焼失する幾多の変遷を重ねながら、十三世紀頃まで九州一円に対する権威を存続させていた。

 大宰府は、平城京の都城制にならって南北二二条、東西二四坊の条坊制をしき、大宰府政庁は方四町、大宰府学校院は方二町、観世音寺は方三町の規模があったと想定されている。
また、大宰府政庁の建物は正殿(柱間四間×七間)及び東西各二棟の脇殿、並びに中門(二間×三間)、南門(二間×五間)それに正殿後方に北門(推定)、そしてこれらをかこむ回廊、築地で構成されていた。

 尚、西側の丘には柱間三間×九間の規模をもった建物礎石があり、穀物、財物等を管理する蔵司のあったところとされている。
東側の月山と呼ばれる丘は、漏刻台(水時計)が置かれた場所と想定されている。

特別史跡「大宰府跡」案内板より



大宰府跡(特別史跡)
 古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として任務を課せられていた。
 その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、七世紀後半に掘立柱建物が建てられ、八世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、十世紀後半には立派に再建される。
 現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元されたものである。
 これらの建物は菅原道真が
「都府の桜はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
 正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ
「天下の一都会」であった。

大宰府政庁南門跡

南門とは
 南門は政庁に南に開かれた正門である。南側には東西に延びる築地塀が取り付き政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。
 なお役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
発掘調査でわかったこと
 南門跡は中門跡とともに、昭和43年(1968)年に大宰府跡で最初の発掘調査がおこなわれた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第U期)のものではなく、平安時代後半(政庁第V期)に建て替えられた時のものであることが判明した。
 建物の平面形は変わらないが、基壇(建物土台)は拡張されておりU期に比べて大きくなっている。基壇の中央部から水晶や琥珀を納めた鎮壇のための須恵器壺が完全な形で出土した。この壺はU期の門の築造年代を知る有力な手がかりとなった。
 礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある。なお両側の柘植は築地塀を表示している。

南門の復元模型
 これまでの発掘調査の成果と、現存する古代建築の構造・意匠を参考にして、想定復元した模型が右の写真の建物である。復元された南門建物は、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行き2間(8.2m)の規模を誇り、正面入口には3ヵ所の扉が設けられていた。
 また、大宰府の玄関口としてふさわしく、2階建で入母屋造りの屋根をのせた、壮麗で堂々とした門だったようである。
はじめに
 ようこそ古都大宰府へ。四季の彩りが美しい四天王寺を望むこの場所は、万葉集にも詠われているいにしえの西の都の跡です。
 
「遠の朝廷」として、繁栄を誇った大宰府も平安時代末頃(約900年前)にはその役割を終え、田畑と化してしまいました。
ところが、昭和30年代からは、歴史的価値をもった貴重な遺跡として、再び脚光をあびることになりました。
 ここで、みなさんに古都大宰府が歩んできた保存への道のりを簡単に紹介し、大宰府理解の一助にしていただければと思います。

保存の歴史

 大宰府跡の保存は、江戸時代に福岡藩(黒田家)が行った建物礎石の調査に始まります。明治、大正、昭和と時代が変わっても、保存の精神は継承され、大宰府を顕彰する石碑が建てられたり、簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきました。
 昭和30年代後半、この他が福岡市に近く、住宅地に適していることもあって、大規模な宅地開発の計画がもちあがりました。開発の波から地下に眠る文化財を守るために、文化財保護委員会は指定区域拡張の方針を示し、保存にのりだします。ところが地元は自分たちの生活と深くかかわりのある問題として、慎重な態度を示します。
 昼夜を問わす行政との話し合いが続けられ、やっとのことで指定区域拡張に対する理解と協力が得られました。 それからもう30年余りの歳月が経ちました。この間、発掘調と保存整備が地域の人々と共に進められ、今日に見る大宰府政庁の姿ができあがりました。

大宰府のこれから

 文化財の保存は、人とのかかわりをぬきにして語ることはできません。地元をはじめ、いろんな人たちの苦労と努力が刻まれている古都大宰府も同じことだと言えます。これからもみなさんと共に太宰府のこれからを考えていきたいと思います。









 
     
     
     
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